「バロン滋野の生涯」


以前より興味のあった男爵、滋野清武についてかかれた本「バロン滋野の生涯」平木国夫著(文芸春秋)を入手し大変興味く読みました。この第一次大戦中フランス空軍に従軍した日本人男爵の話は前から詳しく知りたいと思っていましたがよい資料が見当たらず忘れかけていました。しかし先ごろ入手したチェコの航空雑誌"REVI"に特集が組んであり、読めないながら滋野清武の写真数点と愛機のカラープロファイルを見て再燃してしまいました。是非とも詳しく知りたいと思い日本の知人に尋ねたところ今回この本を送ってもらうことができました。(後日 Windsock Vol.7, No. 2に"The First Flying Samurai"という滋野清武についての記事があるのを知りました。)

すでにご存じの方も多いと思いますが、滋野清武は飛行機操縦を学ぶため1910年に27才で単身フランスへ渡ります。この1910年(明治四十三年)は徳川、日野両陸軍大尉が代々木練兵場で日本初の動力飛行を行った「日本航空紀元」とされる年ですが両大尉も同年に渡仏し年内に帰国、上記の公式飛行を行っています。滋野はフランスで操縦を学ぶかたわら自作滋野式「わか鳥」号の設計製作に着手、1912年にライセンスを取ると「わか鳥」を携えて帰国します。この後陸軍に招かれ徳川好敏大尉の下で教官として操縦教育を担当するのですが徳川大尉との確執があって辞任します。この辺のいきさつが以前読んだ徳川氏の「日本航空事始」と大分印象が違い、一人の著書を読んだけでは歴史は判断できないと痛感した次第です。1914年(大正三年)に二度目の渡仏。滞在中に第一次大戦が勃発し、滋野は操縦技術を磨くためフランス陸軍飛行隊に志願入隊します。最初ボワザン装備の偵察爆撃中隊に所属、その後、エース、ギヌメールやフォンクの居た有名な「こうのとり大隊」N26戦闘中隊に移りニューポールC11や当時最新のスパッドVII戦闘機に搭乗し教官も努めました。「こうのとり中隊」のパイロット達はみな愛機の胴体にこうのとりのマーキングを描いていましたが滋野は愛機に「こうのとり」の代わりに日本の国鳥「丹頂鶴」を描いていました。写真、図は1917年、SPA26中隊所属当時の愛機スパッドVIIで、この機体にも亡くした妻の名にちなんだ「わか鳥」を名づけ操縦席側面の排気管下に黒で"WAKATORIの文字を書いています。

本に登場する飛行機の模型が作りたくなりキットを調べましたが、スパッドVIIはスパッドXIII に比べあまりキットに恵まれていません。スパッドXIII ならレベルの傑作1/28を筆頭に1/48ではテスター(旧ホーク)、グレンコ(旧オーロラ)、ドラゴンの新作、1/72ではエアフィクス、レベル、エッシー(旧フジ)と数多くキット化されているのですが、スパッドVIIのプラモはエアフィックスの1/72とエレール1/40(!)だけです。後者はアルティプラスト、スメールでも販売され現在スメールが金型を持っているようですが、ともにプラモ黎明期に発売された古典機の古典キット(?)です。もちろん最近の高価なレジン、簡易インジェクション・キットでならVIIは出ていますが、ここは一つオールドキットで〜と、好奇心も手伝い上記古典キットを入手することにしました。共に非常に古いキットなので今から楽しみ(!?)です。 この「丹頂鶴」を胴体に描きたいので、どちらかと言えば1/40に期待してます。

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