コパイ甲板上の迷彩零戦

1944年7月、サイパン島で米軍に完全な零戦が多数捕獲され米本土に運ばれました。これら261空の零戦52型を中心とする零戦の写真はその捕獲から米本土でのテスト飛行まで多くが発表され、現在チノのプレーンズ・オブ・フェイムが所有する飛行可能な零戦52型やワシントンDCの航空宇宙博物館に展示されている零戦52型もこの時に捕獲されたものの一機であることは零戦ファンの間では周知の事実です。その写真のうちの一枚、米本土に向かう米小型空母コパイ甲板上で撮影された零戦群の写真には機体上面に濃淡二色の雲型迷彩が認められることから「退色したオリジナル塗装の上に部分的に新しい濃緑黒色を塗布したため。」としばらくの間解釈されていました。主翼、胴体とも日の丸付近を中心に濃い色が塗られているように見えるのです。

この説も100%の支持を受けていた訳ではありませんが、先ごろモデルアートより出版された「日本海軍機の塗装とマーキング・新版」で新たな写真が一枚発表され(P.189)上記迷彩説に終止符を打ちました。この写真とは甲板上で水兵達が一機の零戦の胴体日の丸付近を濡れた布で拭いているところで、拭われた日の丸の付近が埃を被った他の部分に比べ暗い色に見えます。上記写真の雲型迷彩零戦は、埃を拭われた部分とそうでない部分の濃淡が、まるで2色迷彩を施したように見えたわけです。新たに発表された写真のキャプションには「油を染み込ませた布で拭いているシーン」とあります。写真にバケツも写っており、水の可能性もありますが、水兵の表情からするにどうやら水ではなさそうです。何のために「油を染み込ませた布で拭いている」でしょうか。油という表現に暗に〜塩害から機体を守るため〜と言いたげな印象を受けますが、それ以上のことは書かれていません。

これはズバリ、日の丸を塗りつぶすための準備でしょう。油には違いないでしょうが揮発油のたぐいで埃を拭いているところと思われます。捕獲した敵機の国籍マークを描き変えるのは常ですが、特に目立つ「日の丸」は当時制空権で優位に立つ米軍の安全のためにも、すばやく塗りつぶす必要がありました。フィリピンのクラーク・フィールドを奪還した際の写真をみても、捕獲した日本軍機の日の丸はまずオリーブドラブで潰され、その後白い星を描き込まれています。しかしこれらサイパンのアストリート飛行場で捕獲された零戦群は、一時的に同基地を占拠した米軍が、奪還を計る日本軍の攻撃の最中、急いで海岸まで運んだもので、国籍マークの塗り変えなど到底出来る状態ではありませんでした。

コパイ甲板上にあっても船を友軍の攻撃から守るため、零戦の「日の丸」を塗り変えなければならないのは同じです。以前から知られているコパイ甲板上の零戦群の写真ですが、これは上空から見たらまるで日本の空母です。この米軍にとって危険きわまりない瞬間は、またカメラマンにとって「捕獲した敵機」の撮影に絶好だった訳です。以上の事から想像するにこの写真は米本土へ向かうコパイの航海の極初期に撮影されたものと思われます。たぶんシリーズで、日の丸を星に描き替えている写真も撮影されたのではないでしょうか。

【捕捉】「アストリート飛行場占領」

米軍によるアストリート飛行場占領は、フィリピンのクラークフィールドとは全く状況が違いました。(クラークでは捕獲機の飛行テストまで行われていますが)米軍は1944年6月15日にサイパンの上陸を開始、18日の夜に4th海兵隊が飛行場の一部を占拠しましたが夜中に日本軍に押し返されています。その後海兵隊はアメリカ陸軍の第27歩兵師団と共同で飛行場のほとんどを占領しますが、捕獲した日本軍機を船積みするまでの2週間、飛行場の一部はまだ日本軍が占拠しており、日本軍の迫撃砲や機関銃での攻撃攻撃を受けながらの作業は困難を極めたと、軍の情報機関 T.A.I.C.(テクニカルインテリジェンス)の少尉のリポートにその状況は詳しく書かれています。(AIR POWER 1977 3月号)

サンパンの日本軍守備隊は不意をつかれたのか米軍に完全な飛行機を捕獲されてしまいましたが、日本軍は兵器を破壊してから撤退するのが常で、そのため米軍はそれまでに完全な日本軍兵器を捕獲することが出来ませんでした。したがってサイパン飛行場守備隊は、奪還のため必死の攻撃をしかけたと想像されます。

米軍は上陸当初は日本軍のトラック等を修理して使い、また食料はK-Rationのみ。水も少なかったので、近くの洞窟で発見した缶 詰など日本軍の食料物資にたよったそうです。米軍が上陸して11目に日本軍は夜中に総攻撃を仕掛けて来て、50〜75人の日本兵が米軍の占拠した隣のハンガーを一時占拠し軽機関銃を設置。同時に飛行場に並んだ米陸軍のP-47戦闘機の燃料タンクに穴をあけられ火を放たれて5機が焼失しました。またこの頃サイパンの上空では「マリアナのターキーシュート」と呼ばれた空戦が毎日のように繰り広げられていましたが、別 の日には被弾した零戦の一機が強行着陸を試み、米軍に気が付いて機銃掃射をかけて来たと記録にあります。 米軍はハンガーの一つを選びそこに日本軍飛行機を集め海兵隊員に昼夜交代でガードさせしました。「九七艦攻と8機の零戦は2回も日本軍の攻撃にあったがいずれも回避した」とあります。そしてサイパンの日本軍は7月7日に玉 砕しました。

日本軍機捕獲調査の使命を帯びている、T.A.I.C.のメンバーは少尉一1人と水兵2人の計3人のみなので 捕獲機のコパイへの積み込み作業は海兵隊の協力を得て行われましたが、7月の第一週にはUSSコパイ(CVE 12)に日本軍機の積み込みを完了しました。捕獲機を4マイル離れた海岸に運ぶのにも途中邪魔になる電柱や木を切り倒さなければならなかったそうで、この状況下、2週間で捕獲〜船積み出来たのは寧ろ異例の速さと言えるでしょう。 

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