「零戦灰緑色考察 その2」

太平洋戦争中、三菱、中島、愛知、川西など多くのメーカーが各種の海軍機を製造しましたが塗装は海軍航空本部より通達されたガイドラインに沿って一定の迷彩塗装が各社製造過程で行われました。大戦後期すべての海軍機にほどこされた濃緑色も三菱系、中島系、川西系などと言われそれぞれ色に差があったことが知られています。三菱系は黄色みのある鮮やかな濃緑色、中島系は暗くやや褐色がかった濃緑色、そして川西系は青みの強い黒緑色といった感じの色だったと言われています。一般にこれら色の差は各社が同じ色を調色することが出来ないため生じた不可抗力の差と解釈されています。

一方、複数のメーカーでライセンス生産された同一機種の場合、色の違いだけでなく、はっきり認識出来る塗装パターンの違いがあります。たとえば灰色系迷彩の零戦21型で、胴体の「日の丸」に白縁のあるのが中島製、白縁のないのが三菱製。上面を濃緑色に塗るようになった52型以降の零戦で、胴体上下面色の塗り分け境界線が水平尾翼に向かって尻上がりになっているのが中島製、水平尾翼の下で一直線に塗り分けられているのが三菱製。大戦後期に登場した艦上攻撃機「流星改」で、エンジンカウリングおよび風防前部上面を斜めに黒く塗り分けているのが大村海軍第二十一航空廠製、カウリングを上下面色で水平に塗り分けているのが愛知製〜などの例があります。これらは明らかに識別出来るよう意図されたものですが何故でしょうか。

整備上でメーカー別に細かい儀装の違いがあったとしても、遠くで見てそれと知る必要はない訳で、これは単に他社製造の機体と区別したいという「製造会社のプライド」、「誇り」以外に理由はないと思われます。私は不可抗力と解釈されている上記「色の差」も実は意図して行われたものではないか?と考えています。もちろん軍の通達がある迷彩ですから極端な事は出来ませんが、許容範囲内で行われたと結果と想像します。上面を濃緑色に塗った後期の中島製零戦と三菱製零戦が並んで写っている写真があります。これを見るとその塗装パターンだけでなく色の差までが白黒写真ながら歴然としていて、とても不可抗力で生じたようには見えません。基本的に黒とされているエンジンカウリングも「明るく青みがかっていた」と言われる三菱製独特のカウリング色が白黒写真でも確認できます。黒なら合わせるのに苦労は無い筈です。厳密に言って同じ色を2度調色することは不可能ですが、これら色の差はそういうレベルの差ではありません。50年以上も前に撮影された白黒写真でもはっきりと見えるのです。第一「日の丸」はどの種の機体でも写真ではほぼ一定して写っていて調色のむずかしいとされる赤系塗料ながら「日の丸」に関してはメーカー毎に色の差があったという話は聞きません。

「零戦」ほか、航空機開発をめぐる当時の状況は多くの書物に詳しいところですが、同種のエンジンや武装ながら陸軍仕様と海軍仕様とではプラグひとつ、弾丸ひとつ交換出来ない状況を生んだ日本軍と企業の体質(派閥やセクト主義)を思うと、航空機製造メーカーは意図的に独特の色調に塗装したと考えて不思議ではありません。ましてや競争試作に破れた企業が競合相手の設計した機体の生産を命じられる時、無言の抵抗ともいえる小さな塗装の違いは十分納得がいくのではないでしょうか。尚、大戦末期の物資の不足や前線での応急迷彩などの例から原因不明の迷彩パターンや色の差をすべて〜日本軍が物資の供給面で劣っていたため手近なもので間に合わせた〜かのように解釈するのは疑問で、少なくとも日中戦争から太平洋戦争中期まで国内の軍需産業は多量の物資を確保しており塗料も潤沢に保有していたので生産段階でそのような事は行われなかった筈です。

以上の様な理由から零戦の初期灰色系迷彩色、三菱製の「灰緑色」と中島製の「灰色」は遠目に見てもはっきりした違いがあったと想像します。ただこの2色は特に白黒写真で差を確認するのが不可能なため、はっきりした証言がありながら曖昧にされているのではないでしょうか。また、前回映画「トラ・トラ・トラ」に登場する薄緑に塗られた零戦について書きましたが、ハリウッド映画とはいえ、この零戦の薄緑色は連合軍側捕獲機の調査資料より割り出したものです。考証を担当したDonald W. Thorpe氏は当時来日して攻撃に参加した生存者にインタビューするなどのリサーチをしており、"Japanese Naval Air Force Camouflage and Markings World War II"の著者でもあります。「A BOOK」参照。

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